迷羊、上ル下ル

京都の社会人です

27クラブ

正直、いつ死んでもいいと思っている。

やり残したことがないという訳ではないが、その点で言うと、やり残したことがない状態で死んだ人はいない。たぶん。人は、死ぬ直前まで、ないものねだりをする生き物で、それは僕も同じだろう。

なんとなく人生の予想が付くようになってしまった。自分のできることとできないことが分かるようになって、チャレンジをしなくてもよくなってしまった。人に迷惑をかけることも嫌われることもしたくないし、それでも掴みたい何かがあるわけでもない。

 

仕事に就いた当初は、クリエイターになりたいと思っていた。思いは、この仕事に虚無感を覚え始めてから、より強くなった。つまり、文章で人を動かしたいと思っていたけど、今思うと、その気持ちは何者かになりたいという願望とイコールだったのだろうな。月日が過ぎるとともに、気持ちは賞味期限を迎えたし、23だった年齢は27になってしまった。

世間への無力感もある。人に影響を与えられる人間になりたいと思っていたわけだけど、SNSを見ていると、そんな期待も持てなくなる。新聞は読まれないし、というより文章はもう読まれない。そして、僕らは、社会に迎合していかなければ、生きていけない世界に生きている。

 

これまで、何も成し遂げなかったわけではないと思うし、これからも、努力すれば、見えなかった景色が見られるようになると思う。世の中って、必死に頑張ったら、結果が出るようになってるっていうのは、この4年で分かった。努力を見てくれている人もいた。

でも頑張れば結果が出るなんていうのは、誰かが意図的に置いたボタンを押したらブザーが鳴った、というようなことに過ぎなくて、僕はそこにどんな意味を見出したらいいのだろうかってこと。ボタンを押そうと押すまいと、時間は変わらずに流れていくし、必死に頑張ってボタンを押しても、もらえるのは、「おとな帝国」でしか使えない紙切れだけって、これ。。じゃあ、このゲームに参加する意味ってなに?という、全共闘時代の学生のような叫びは、もう聞き飽きたけれど。ただ、体制を維持するためのシステムに乗っかって、人の手のひらの上で踊っていれば幸せなのかな、というモヤモヤは常にある。うん、確かに、幸せなのだろうけど、もうそんなに単純にはなりきれなくなってしまった。

 

ブログも、ずっと書けなかった。記事を書く仕事に就いたせいだと思っていたけれど、たぶん違う。18歳のあのころは、何も分からなかったから、いろんなことに怒ることができたし、疑問を持つことができた。けど、今はこの社会に肯うことも否むこともしないまま、ただ、ピースの一つとして組み込まれてしまっていて。何を書いても、途中で結論が見えてしまい、書くのが嫌になってしまう。結論が出てるなら、そこに向かって進めよ、となるけど、それは社会から下りることだったりするので。結局、僕は今までの道程と資本主義に身柄を取られたまま、口さえも封じられて、できることは、何の生産性もない仕事をしながら、マッチングアプリを眺めることだけ。それが、たしかに生きてるってことなんだろうけど、あまりにも、なんていうか、退廃的?

 

27になって、さあ、どうやって大人になろうかと、自分探しのようなことばかりを考えている、恥ずかしいことに。27を越えてしまう前に、ぷっつりと死んだら、その最期の瞬間は満足できるのだろうか。僕は27クラブになれないのは確定しているんだけど、もし27で死んでも、あるいは27で死ななかったとしても、クソほどムカつきそうな気がする。