迷羊、上ル下ル

京都の社会人です

忘却

忘れ去ること。忘れ去られた、と思うこと。そのどちらも、僕は苦手だ。

 

ふとした時に、嫌な記憶を思い出すと、僕は両目を強くつぶることにしている。そうすると、次に、新しい視覚情報が入ってきて、僕の脳から邪魔者は追い出される。これで一時的には忘れることができるのだけど、意図的に忘れようとしているのもあって、余計に強くこびりついたりすることもある。

 

忘れることは、自己防衛本能によるものだと聞いたことがあるけど、わざわざ、何の拍子もなく蘇って、人のことをいたぶろうとするのは、何度も反省を促すための人間版の反芻なのか、それともただの自傷行為なのだろうか。前者なら、そんな機能いらねえよ、と大騒ぎしてしまうが、後者なら、まあ、分からなくもない。

 

子どもの頃、あまりにも強くこびりついていて、こびりつきすぎて平気になったのだが、トラウマ的な記憶がある。

小学校4年生の理科の授業で、先生がマツタケのようなものを掲げて、「これは何から作られてるでしょう」と呼びかけた。僕は堂々と手を挙げて「カビ!」と答えて、はい、キノコってカビからできてるって知ってましたか、みなさん、という調子で先生の言葉を待っていたのだけど、先生は笑顔で「うん、流石ですね。これは紙でできてます」と。マツタケ状のものはティッシュをぐしゃぐしゃに丸めて、それを少し火で炙って作ったものだった。

あれ、カビって言ったよな、と思ったと同時に、それが紙でできていることに気づいた僕は、自信満々に答えたものが間違っていた恥ずかしさ以外に、知識をひけらかしたことへの自己嫌悪や、聞き間違えた先生の賛辞をそのまま受け入れていることへの居心地の悪さがとてつもない勢いで訪れ、その出来事はすぐにトップ級のトラウマになってしまった。

もちろん、その後、このことを話題に出す人は一人もいなかった。ただ、この頃から僕の人生は変な方向に進むようになった。妙な知性主義が生まれ、うるせえ、キノコはカビからできてるんだよ!知らない馬鹿が悪いんだろ!と心の中で騒ぎ立てた。そして、こんな思いをするのは、僕が賢いからだ、と自分の生まれ持った宿命?を哀れんだ。

ただ、まあ、この時、カビと言わなかった世界線の僕は、多分、今と全く変わらないだろうけど。

 

他人は全部忘れちゃうのに、とも思うが、それも、どこか虚しい。僕は、忘れられないし、忘れて欲しいんだけど、でも忘れられるのが怖い。最近は、どうにか他人に自分を印象付けようと思って、頑張って、それでトラウマが更新され続けている。なんとも生きにくいが、仕方がない。

 

好きだった人のことをいまだに思い出す。それは全てが黒歴史で、反省しかないんだけれど、その記憶で頻繁に身悶えしてしまうわりに、同じ失敗は何度も繰り返してしまう。これは反省でも自傷でもなく、多分、、、呪いなのだろう。

27クラブ

正直、いつ死んでもいいと思っている。

やり残したことがないという訳ではないが、その点で言うと、やり残したことがない状態で死んだ人はいない。たぶん。人は、死ぬ直前まで、ないものねだりをする生き物で、それは僕も同じだろう。

なんとなく人生の予想が付くようになってしまった。自分のできることとできないことが分かるようになって、チャレンジをしなくてもよくなってしまった。人に迷惑をかけることも嫌われることもしたくないし、それでも掴みたい何かがあるわけでもない。

 

仕事に就いた当初は、クリエイターになりたいと思っていた。思いは、この仕事に虚無感を覚え始めてから、より強くなった。つまり、文章で人を動かしたいと思っていたけど、今思うと、その気持ちは何者かになりたいという願望とイコールだったのだろうな。月日が過ぎるとともに、気持ちは賞味期限を迎えたし、23だった年齢は27になってしまった。

世間への無力感もある。人に影響を与えられる人間になりたいと思っていたわけだけど、SNSを見ていると、そんな期待も持てなくなる。新聞は読まれないし、というより文章はもう読まれない。そして、僕らは、社会に迎合していかなければ、生きていけない世界に生きている。

 

これまで、何も成し遂げなかったわけではないと思うし、これからも、努力すれば、見えなかった景色が見られるようになると思う。世の中って、必死に頑張ったら、結果が出るようになってるっていうのは、この4年で分かった。努力を見てくれている人もいた。

でも頑張れば結果が出るなんていうのは、誰かが意図的に置いたボタンを押したらブザーが鳴った、というようなことに過ぎなくて、僕はそこにどんな意味を見出したらいいのだろうかってこと。ボタンを押そうと押すまいと、時間は変わらずに流れていくし、必死に頑張ってボタンを押しても、もらえるのは、「おとな帝国」でしか使えない紙切れだけって、これ。。じゃあ、このゲームに参加する意味ってなに?という、全共闘時代の学生のような叫びは、もう聞き飽きたけれど。ただ、体制を維持するためのシステムに乗っかって、人の手のひらの上で踊っていれば幸せなのかな、というモヤモヤは常にある。うん、確かに、幸せなのだろうけど、もうそんなに単純にはなりきれなくなってしまった。

 

ブログも、ずっと書けなかった。記事を書く仕事に就いたせいだと思っていたけれど、たぶん違う。18歳のあのころは、何も分からなかったから、いろんなことに怒ることができたし、疑問を持つことができた。けど、今はこの社会に肯うことも否むこともしないまま、ただ、ピースの一つとして組み込まれてしまっていて。何を書いても、途中で結論が見えてしまい、書くのが嫌になってしまう。結論が出てるなら、そこに向かって進めよ、となるけど、それは社会から下りることだったりするので。結局、僕は今までの道程と資本主義に身柄を取られたまま、口さえも封じられて、できることは、何の生産性もない仕事をしながら、マッチングアプリを眺めることだけ。それが、たしかに生きてるってことなんだろうけど、あまりにも、なんていうか、退廃的?

 

27になって、さあ、どうやって大人になろうかと、自分探しのようなことばかりを考えている、恥ずかしいことに。27を越えてしまう前に、ぷっつりと死んだら、その最期の瞬間は満足できるのだろうか。僕は27クラブになれないのは確定しているんだけど、もし27で死んでも、あるいは27で死ななかったとしても、クソほどムカつきそうな気がする。